湿った空気がしっとりと肌を撫で、鼻先をかび臭い匂いが掠めた。 (これは雨が降るな。) 水分を溜め込んだ雲が今にも水滴を落としてきそうな空を見上げ、幸村はかつての戦を思い出していた。 武田の最強と謳われた騎馬隊が織田の鉄砲隊の前に全く太刀打ちできずに惨敗を極めた戦。 (あの時もこんな天気だった・・・) 武田が滅んでもう数年になる。 それでもこうしてふとした拍子に幸村はあの地獄絵図のような悲惨な戦を思い出す。 その度に何故己はまだ生きているのだろうか、と問わずにはいられなくなる。 (お館様を失い、主家を失い、それでも私はまだ生きている・・・。) 武士として何故あの時、叔父の信綱や正輝と共に死ねなかったのか。 前田慶次という傾き者に既の事で助けられたからではあるが、幸村にはまだ慶次が己を救った理由がわからなかった。 「幸村、こんなところにいたのか」 「三成殿。」 視線を声のした方に向け、幸村はその主が三成であることを確認するとふっと顔に柔らかい笑みを浮かべた。 目線が合うと三成は少し目を見張り、それを逸らすかのように俯いてしまった。 三成とはこの北条攻めの始まりより旧知・直江兼次の取り持ちで親しくなった。 最初の頃は三成は幸村を邪険に扱うことが多く、幸村も彼にどう接すればいいのかわからずに戸惑うことが多々あったが、三成の不遜な態度に幸村が腹を立てたことは一度もなかった。 三成や兼続に比べ自分はまだ若輩で、しかもはたやもうすぐ天下人になろうとする豊臣秀吉の参謀、はたや大大名上杉景勝の重臣と人質の自分では身分が違いすぎる。 だから三成が己に対して眉を顰めるのは納得できた。 そこで幸村は少しでも三成に認めてもらおうと色々彼に気を配っていたのだが、それが裏目に出て怒らせてしまうこともよくあった。 やはり三成と自分などが義の誓いを交わしたこと事態差し出がましいことであったのだろうか、と感じ始めていたとき、不意に三成の己に対する物腰が柔らかくなったのだ。 最初はお互い石田殿、真田、と名字で呼び合っていたも、いつの頃からだったか三成が「幸村」と呼ぶようになった。 その時は幸村は単純に三成に認められたことが嬉しくて、三成に何かと気を掛けてもらう度に内心胸躍っていた。 だが三成の顔を見るたびに高鳴る胸の鼓動の理由がそんな単純なことではないのにある日幸村は気づいた。 それは決して口にできぬ感情ではあるが、今もこうして三成の顔を見ただけで先ほどまであった心の中の重いものが少しだけ軽くなったような気がするのだ。 「もうすぐ軍議だ。それに秀吉様がお前を探している。」 長い睫毛を瞬かせ、未だ視線を落としたままの三成であるがそれが拒絶を示しているわけではないことを幸村は了解していた。 現に以前と大差ない口振りではあるが、その声音は確かに柔らかい響きを持っていた。 「申し訳ありません、今参ります。」 愛おしいさのあまり今にもその細い肩に触れてしまいたくなる衝動を押し殺すように幸村は一礼をして去ろうとした。 そこでようやく三成が面を上げ、幸村の名を呼んだ。 「幸村。」 「はい。」 視線が合ったが三成は俯かなかった。 「これが最後の戦となる。この戦で小田原城を落とし、秀吉様の太平の世が訪れる。だから・・・」 「はい、それは心得ております。」 この戦で北条を討てば天下に秀吉に対抗する勢力はなくなる。 これが最後であるが、だからこそ気を抜くな、そう三成は言わんとしているのだと幸村は頷いた。 「何を心得ておるのだ?」 だが意外にも三成が眉を顰めて聞き返してきた。 「ですから私は武士としてこの身を投げ打ってでも、」 「そんなことは言っていない。」 幸村の言葉を遮るように入ってきた三成の声は鋭くいくらかの怒気さえ感じられて幸村を困惑させた。 「では・・・、」 「俺はお前に”生き残れ”と言い来た。」 しっかりと幸村を見据えるように向けられた三成から目を逸らせなかった。 「お前は死ぬために戦をしているのではないか?」 一呼吸ほどの間を置いてそう尋ねられた。 それは充分に思い当たる節があることだ。 だがだからと言ってここで頷いてしまうのも憚られて幸村は敢えて沈黙を通そうとする。 が、沈黙もまた三成には肯定ととられてしまったらしい。 三成がはぁと息を吐く音が聞こえた。 鼻腔を雨の匂いがかすめる。 「お前がまだ武田にいた頃の武田と織田の戦についてはあの傾き者から少し聞いている。それがいかに過酷を極めたことも、・・・お前がその戦で死にそびれたと思っていることも。」 そこまで言うと三成は再び俯いてしまった。 だからその表情は見えないのだがその拳がぎゅっと握られていることに幸村は気づいた。 「戦場での真田幸村は強い。まるで紅い炎を纏った修羅のようだと皆を云う。だが俺にはそんなお前の姿が死に場所を求めているように思えることがあるのだ。」 「それは・・・。」 違う、とは言い切れない。 強くそう意識したことはない。 ただこうして誰かに指摘されてみるとやはり否定はできない自分に幸村は気づいて押し黙る。 重く蠢く空を見上げ、あの戦を思いだす。 (やはり私は生きている理由が見出せないままなのだ・・・。) 「以前の風魔の折もそうではないのか?俺のもとに援軍に来てくれたのは感謝しているが、だがお前は義や友という言葉に頼って武士として死ぬための大義名分にしようとしているのではないか?長篠の代わりに・・・」 「違いますっ!」 幸村にしては珍しいくらいの厳しい声だった。 それに驚いたのかぱっと三成が顔を上げたが、幸村の厳しい視線と絡み合うと三成もまたきっと眉根を上げた。 「何が違うというのだ?」 「私はそのようなつもりで援護に向かったのではありません。」 (生きる理由はわからない。だがそれは違う!) ただ己の大義名分のためだけに三成のもとに駆けつけたのではない。 それは確かだった。 あの時はただ三成を助けたい一心で、気づけば護衛をつけるのも忘れ風魔のいる城に向かっていたのだ。 理由を伝えられずとも、この誤解だけは避けたかった。 「では何だというのだ?」 「三成殿を助けようと・・・。」 (あの戦で私が死にそびれていたとしても、私がまだ槍を振るう理由はある。) 「俺はお前に助けてもらう理由がない。」 「それはっ!」 いっそ己が三成を好いているからだと云えたらどんなにいいか。 この胸に潜む思いを打ち明けてしまおうか、そう思ってやはり首を横に振る。 (・・・だが到底伝えられないのだ。) 「何だ?」 「・・・。」 今度は幸村が俯いてしまった。 戦場で死に場所を求めるように槍を振るっていたとしても、槍を振るう理由は間違いなく三成のためだということに気づいた。 義の誓いを交わした日から、この人の望む世のために、それが豊臣の世であるのならばそのために、槍を振るおうと。 だがそれを彼に伝えるわけにはいかなかった。 己の気持ちを自覚したそのときからこの思いは永遠に自分だけの秘め事としうようとも思ったのだ。 乱世の武士に色めいた感情はいらぬ。 太平が訪れれば一介の武士である自分はただの人となり、文官としての才能がある三成はさらに上にいってしまう。 最初から叶わぬものなのだ、と幸村は無骨な己の拳を眺めて首を横に振る。 だが、三成は幸村その様子にやはり己の推察が正しいと判断したのだろうか、また一つ息を吐いた。 「幸村、人のために槍を振るうな。己のために振るえ。そして己のために生きろ。」 誰かのために生きようとするからお前は道を見失ってしまうのだ、そう言われているような気がして顔を上げるとひどく真剣は表情の三成と目が合った。 「三成殿・・・。」 (それでも私は・・・) 「俺はお前に生きて欲しい。だから死ぬな、幸村。」 ひたりと冷たい水滴が額に掛かった。 雨が降ってきたのだ。 「俺はお前が長篠の戦で討ち死にせずに済んで良かったと思っているのだ。」 そう言うと絡んだ視線の先の三成が微かに笑った。 三成の声音からはもう怒気は感じられず、それはいつもの柔らかい響きをもっていた。 「私は・・・。」 (貴方を思っていると云えたら楽になれるのだろうか?思っているからこそあなたのために槍を振るいたいのだ、と。) 幸村が何か言い掛ける前に三成の白い腕が伸びてきて、ぽんっと肩を叩かれた。 「軍議が始まる。」 そう言うと三成は幸村に背を向け歩き出した。 水滴の落ちる感覚がさらに早まり、髪や甲冑を濡らしてゆく。 幸村は遠ざかる人の背を見つめ、胸に疼く思いに顔を歪ませる。 この雨のなかでさえ消えない焔に。 そして思う。 (たとえ貴方の頼みであろうと、) それでも己は三成のために槍を振るうだろう、と。 それが三成を慕う故であることを。 彼が死地に赴くのであればそのためにまず己が命を投げ出そうと。 それが死に場所を求めているように写ったとしても、誰かのためにこの身を投げ出すことでしか進み仕方を知らないのだ。 (三成殿、私がこう思っていることを知ると貴方はやはり怒るのでしょうか?)終
1000hitを踏まれたしの様への捧げものです。
リクエストは幸村→三成よりで切ない話だったのですが・・・
精進します(汗)
タイトルは翁草の花言葉に"告げられぬ恋"があったので其処から。
[2010年 2月 1日]