Goodbye My Wings10
すり抜ける指、誰か悪い夢だと言って欲しい。
この腕に抱いた痩せた肩、絡めた指、吐息、総ての感覚がまだ新しいのに、それを与えてくれた彼がいなかった。
伝えようと思ったのに。
彼はアルトの言葉を聞く前に暗い宇宙に消えてしまった。
死ぬのが怖いと言っていたのに。
最後に見たシエルは涙を浮かべながら、それでもアルトを見て笑っていた。
その笑顔が目に焼きついて離れない。
色んなことが一瞬のうちに起こりすぎて思考も感情も取り残されたように正常に動作していなかった。
ただ最後に見たシエルだけがアルトの総てで、今はそれ以上の思考も感情もアルトにはなかった。
「隊長・・・シエルッ・・・!」
声に出してみたところで、今自分を支配すべき感情が悲しみであることをアルトは悟った。
だから悲しいと思う。
しかしその悲しみはどこか乾いていて、まるで自分のものではないようだった。 その理由はただ一つ、アルトはまだシエルが目の前で消えてしまったあの状況を理解できていないのだ。
本当にシエルはもうこの世に存在しないのだろうか。
ほんの少し前までその体温を感じていたのに。
甘い声でアルトの名を何度も呼んでいたのに。
まるで時間が止まっているようだと思った。
「いい加減にしろよっ、アルト!」
不意に激しい怒声が響いた。
俯いたまま顔を上げようとしないアルトにミシェルがいい加減痺れを切らし、声を張り上げ拳を振り上げたのだ。
次の瞬間、船内にパンッと爽快な音が鳴り響いた。
しかしそれはアルトが殴られた音ではなく、アルトがミシェルの拳を平手で受け止めた音だった。
「・・・悲しんで何が悪い。」
確かにアルトを支配すべき感情は悲しみだった。
しかしどの感情も思考も追いつかない。
まるで胸にぽっかりと穴が空いたようだ。
「それでも俺は逃げない・・・!俺は戦う!」
それでも一つだけ確かに分かっていることがアルトにはあった。
もう迷わないと決めたのだ。
今自分が為すべきこと、それだけは乾いた感情でも理解できた。
(シエル・・・ッ!俺は戦う!)
真剣な眼差しでミシェルを見据えると、ミシェルの表情が和らいだ。
きっとアルトの決意を読み取ったのだろう。
いつも何かから逃げていた、そんなアルトはもうここにはいないのだ。
「もうお前を姫とは呼べないな。」
その言葉にアルトはミシェルの拳を握る返すことで答えてみせた。
戦闘服に着替えるため更衣室に入ると、そこは今までアルトがいたどの場所とも対照的にシンと静まり返っていた。
こうして一人になるのが随分久し振りのことのように感じながら、アルトはロッカーを開ける。
この短時間に色んなことが起こった。
その事実一つ一つをあの混乱と喧騒の中で整理することもできずにここまで来てしまっていた。
しかし一人になった途端アルトの意識はシエルに向けられて、最後に見たあのシーンが今度は確かな感情を伴って思い起された。
まだ何も認めたくない、気づかない振りをしていたいと思うのに、何故か一人になったアルトにはその願いも虚しく、根拠のない実感とともに最後通告のようにシエルの笑顔が眼に浮かぶ。
さっさと着替えを済ませて、ここを出ようと思うのにボディスーツを脱いだところで胸元に光る紫のそれに気づいてアルトの中でその感情が決定的なものとなった。
見たくなかった。
気づきたくなかった。
認めたくなかった。
振り返ると、途端に前に進めなくなるような気がして怖かったのだ。
もちろん今自分が為すべきことはわかっている。
ミシェルに言った言葉は偽りではない。
だけど今、この瞬間だけは彼を思うことを許して欲しいと思う。 彼の名を呼び、涙を流すことを許して欲しいと思う。
「・・・シエ・・・ルッ・・・」
悲しいという言葉だけでは到底足りない。
目の奥がつんっと熱くなって、もっと深く胸を抉るような感情がアルトに襲い掛かった。
唇から零れるようにその名を呼んでみても返事はない。
この石を通して彼の歌を聴くことも、彼に思いを届けることももうないのだ、と頭では理解していても、その石に対して語り掛けずにはいられなかった。
「シエルッ・・・!」
こうして名前を呼び続ければ、いつか彼が答えてくれる。
そんな気がしてアルトはぎゅっとシエルのイヤリングを握り締めた。
to be continued...
あとがき
遅くなりました。
もう物語も終盤です。
[18.05.2011]